イワテバイクライフ2006年9月前半
9月15日(金)
「秋晴れ」の枠を突き抜けるほどの晴天。天空の透明度、大地の陰影、すべて鋭く、すべて乾いて。 @北上高地
千里の旅路の果てに、 その夕暮れが待っているとは限らない。 海峡と国境を幾つ越えても、 その静寂にめぐり会えるとは限らない。 そこに至るまでの時間や距離ではない。 そこに広がる地形や展望ではない。 そこに佇む者の目に、 一切は、どのように見えるか、ということだ。 一切を、いかに受け止めるか、ということだ。 同じ道を辿っても、 同じラストシーンに至ることは希なのだ。 |
9月14日(木)
すでに最高気温の数値など問題外で、秋と私の間合いこそが全ての季節。光線の物語は、夕暮れ、かすかに。 @盛岡市
もう言い残すことはないか、と 夕暮れは私の肩に手をかけるのです。 もう許してやっていいのか、と、 秋の残照は私を透かしていくのです。 (さて、どうしたものか) 私が何も答えなくても、 消えゆくものは消えていく。 私が何も決めなくても、 大地の明日は決っている。 |
9月13日((水)
明け方の雲を払って爽快な秋晴れが広がったけれど、大気全体の流れからは異端の蒼さに過ぎなかった。 @岩手山麓
夜のどん底の それも、どろどろの闇の底で電話が鳴った。 懐かしい声が切り出した。 (ねえ、今も舞っているの?) (ねえ、今も歌っているの?) (ねえ、今も黙りこくるの?) 私は、おそろしく低い声で訊ねていく。 「お前は、今、何処にいる?」 (嵐の中) 「お前は、今、何を見ている?」 (沈む船) 「お前は、今、誰と話してる?」 (カモメ) 窓を開けると深い夜霧に海が匂った。 |
9月12日(火)
冷えた曇天から、まれに水滴。夕刻に至り、何か希望めいた青空と陽射しがにじんだ。 @滝沢村
水は空であり 空は風にさざめき 光、戸惑い揺れて 森を泳がせる。 すべてを映すものがあるのなら、 それは、時か あるいは、心か。 この夕暮れに とけてしまうまで、 鏡の中に佇む。 |
9月11日(月)
陽射し混じりの曇天。9月も半ばなのに最高気温が26度を越える(盛岡)なんて「らしくない」初秋だ。 @北上高地
冷えた風が霧を運んできた。 一面の見晴らしが閉ざされる。 乳白色の川は道を渡り丘に吹き上げる。 牧野の彼方で牛が鳴いている。 「誰かいるか」と鳴いている。 瞬間、霧が途切れて、 西の天空に光の輪が現われた。 (ここで何を祈っているのだ) そう問われた気がして、こたえようとすると、 深い霧の一団が一切を覆い隠していく。 私から私の記憶さえ奪っていくように 来た道を消していく。 |
9月10日(日)
何とも蒸し暑く、煮え切らない青空。大気混濁の結末は、凄まじい夕刻のスコールと雷鳴。 @岩手山麓
餌をもらった嬉しさで、心にも無い尻尾を振る。 (いいさ、振り続ければ) 懐柔されたお人よしが、目を輝かせ走っていく。 (いいさ、道が無くても) 腰が軽いと褒められて、渦中に飛び込んでいく。 (いいさ、続く者がなくても) 功名心に火をつけられ、我先に使い捨てられる。 (いいさ、ほくそ笑まれても) 爪弾きされるのを恐れ、際限なく無理を重ねる。 (いいさ、黴臭い掟だけれど) 友情の旗印を担がされ、何から何まで差し出す。 (いいさ、命を差し出すのなら) ここで生きていけるのなら、いいさ。 |
9月9日(土)
朝から曇って涼風などあったが、昼過ぎに空は開け、真夏日の予報を証明しかけたが 結局、最高気温26度3分(盛岡)。
やっと辿り着いた休日だから、 勇んで駆け付けたのだが、 すでに先輩二人が山に入っていた。 (草刈り機の音がする) 2サイクルエンジンの高周波が 山を埋めた夏草をちりじりにしていく。 山頂へ続く道は一気に開け 力と技と、至福の時を与えてくれる山に 夕暮れと共に炎を消し、 |
9月8日(金)
曇り空に「雨」のオプションを付けた予報を裏切って「夏空」拡大。ところが夕闇とともに冷えた雲と霧。 @盛岡市(岩洞湖)
人が一人 天や地を語ろうと、 人一人の宇宙のことだ。 人が一人、 人を嘲ってみても、 人一人の地獄のことだ。 星雲や奈落の果ての 人一人に向けて 意義を申し立てる声など希だから、 言い張ることは容易い。 けれど、ことさらに 朝一面を飾るほどの事ではないのだ。 |
9月7日(木)
昨夜からの雨は朝方まで断続。日中はかすかに明るい空も、夕刻、再度の小雨。やがて秋の雨季なのか。 @滝沢村
雲は低くたなびき山を隠し、 夕闇の筆は一面の実りを重くする。 初秋の水墨画に 私は、点景となって佇む。 こおばしく揺らめく風は、夏の記憶。 青白き狼煙は地を這い、 にわかに天空に踊り まだ見ぬ秋の在処を指し示す。 もう二度と 道を鮮血に染めたくはないのだが、 木々の葉という葉が、 悲しく赤く燃え尽きることは、定めだから、 私も夏と秋の狭間でナイフを研ぐのだ。、 |
9月6日(水)
純な秋晴れは早朝いっときで、昼過ぎには、けだるい薄雲に覆われ、夕闇は小雨に濡れていった。 @滝沢村
この空のもとで、越えた高さを競わず。 この光のなかで、跳んだ距離を誇らず。 この風のなかで、挑んだ峻険を語らず。 私は、ただ、 この大地に寄り添うことが好きで好きで、 もう、ほんとうに、 接吻(くちずけ)するように駆け上がり、 抱きしめるように旋回するのです。 車輪の回転ひとつひとつに感謝を込め、 岩や樹木や草花や虫の音にすら とけてしまいたくて ひと雫の汗となるのです。 |
9月5日(火)
三陸沖へ北上を続ける台風12号。時折の風に気配がこもる。曇天の割には28度5分(盛岡)。 @滝沢村
夏は終った。 どんなに美しい思い出も、 明日を切り開く斧にはならない。 未来に挑むのは、 過ぎ去った私ではない。 目線を上げる覚悟と不安にふるえる 今日の私なのだ。 そこへ師匠が現われた。 次々とステージを変えて私を試す。 出来たことが出来なくなる。 出来るはずなのに金縛りに遭う。 (基本が出来ていないからです) そう言い残すと、師は夕空へ飛んだ。 よりよく生きる為の基本があるのなら、 命尽きる日まで、すなわち「トライ」なのだ。 |
9月4日(月)
限りなく真夏日に近い残暑。岩手山すら熱気をおびた雲を払いきれず、ぐったり。 @滝沢村
暁の練習のための2時間が 雑事に追われるうち、砂となって流れ落ちる。 そんな夢を見た。 夢と同じように起床し、 夢を振り切るように家を出た。 夢遊病者を見るような家人の目だった。 邪魔する者無き森で、 大地の質量を楽しみ、 流れる時間を惜しみ、 朝露の輝きを愛しみ、 水筒に満たされた太陽の熱を飲み干した。 |
9月3日(日)
確かに空は澄んでいた。流れる雲は脱力して初秋なのだ。けれど陽射しの「やる気」だけは夏なのだ。 @滝沢村
打ち込んだテーマは「宮澤賢治」。 徹夜の末の一発勝負に集中した。 うまくいったら「いつも通り」と決めていた。 陽射しに金箔がまじる頃 修羅場から生還。 仲間をねぎらい、騒然たる現場を離れ、 (さて)と、トランスポーターにもぐり込んだ。 すべては、この空の下の出来事だ。 幾万里を走ろうと、この空の下なのだ。 ならば、イーハトーブの一点から 世界を見上げようではないか。 一日の終わりの美しさに感嘆し、 明日を告げる光や雲に感謝して 世界を見上げようではないか。 |
2006年9月2日(土)
涼やかな秋空は、やがて夏雲の残党に占領され気温も28度を越える(盛岡)など依然残暑モード。 @滝沢村
早朝から息詰まることばかりだ。 大掛かりな仕事の準備が終った頃には、 陽射しは西に鋭く傾いていた。 光がある限り、 そこへ向かうことが定めのように、 斜光の街を抜け出て 私を山野に解き放った。 こんな空を求めて 1000km走る旅もあれば、 こんな空が日々寄り添う暮らしもある。 いつもの場所で、かわらぬ汗の後で、 思わず大地に跪く瞬間(とき)がある。 見上げれば、無限の道筋を開示する空がある。 |
2006年9月1日
暗い雲が日中の空に居座って、結局、束の間の夕立と雷鳴で決着。秋は遠い。 @盛岡市近郊
(息をひそめ粛々と進む目論見よ) それは、正しく競った末の形なのか。 正面切って闘った痕跡などあるのか。 辛辣な批判は自尊心が許さないのか。 やり過ごす事を辛抱強さと言うのか。 ひたすらに先送りされる暗闇なのか。 いつもの顔ぶれ、いつもの仕組みで、 道筋は相変わらずなのか。 締め切った部屋で、名誉を分け合い、 均衡は相変わらずなのか。 ひたすら禅譲の日を待ち侘びながら 結末は相変わらずなのか。 |